群馬県子連のあらまし

 子ども達が組織的に活動してきたという点からみた子ども会の歴史は非常に深く、徳川時代あるいはそれ以前からと考えられている。その頃は、子ども仲間、子ども組、小若衆などと呼ばれ、会員は15歳前後の子どもであった。1月13日から14日の未明にかけて行われた「どんどん焼き」「おんびや」と呼ばれる道祖神祭り、2月25日に行われる天神講などは、いずれも子ども仲間によって行われてきた行事で、それぞれ世話役がいて、会食など自主的に運営されてきた。また、榛名山南麓から利根川右岸地域に行われてきた「地蔵祭り」や、多野郡万場町の「火あげ」や、佐波郡玉村町の「水神祭り」なども子ども仲間の行ってきた行事で、こうした多くの行事を通して自然発生した子ども仲間が、存在し続いてきたのである。こうした行事活動は、その後の時代の変遷にもかかわらず根強く存続して、現在の子ども会活動の中で「ふるさとの年中行事」の再認識ということで大きく見直されている。

 明治時代に入ると学校教育制度が導入されて、大きな分野を占めるようになった。そうした中において地域の子ども達は、自主的に小学生を中心に最年長15、16歳までの者をもって少年会、あるいは幼年会を結成して、談話会、講演会、幻灯会などを開催し、会費制で、子どもが自主的に就学奨励をしたり、共同作業をしたりして、お互いに知識の習得、交換のため活発な活動を行ってきた。これらの少年団体等は、名称は異なるものの、最も古い活動歴をもつ子ども会であるといえる。

 大正時代になって上からの指示による少年団体が次々に結成された。
その後昭和時代に入って、我が国が戦争に突入し、だんだんエスカレートするにいたっては、国民精神総動員の名によって、徹底した国家統制の下におかれ、少年団体活動も自主的活動などということとは遠い昔の夢となり、その枠の中におさめられてしまった。

 やがて敗戦、大人たちは自分たちが生きるだけで精一杯になり、人のことを考える余裕は全くなかった。それまであった少年隊、少年団等は敗戦後解散してしまい、町中には戦災孤児や乳浪児がたむろし、道徳は極度に低下し、多くの子どもが非行に走っていった。そうした時に、こうした子ども達の将来を心配した篤志家が、子ども達を集めて生活指導に立ち上がった。国においても、昭和21年文部省が、児童愛護斑活動について通達を出し、また、昭和23年厚生省は児童指導班活動について通達を出して、子ども会の結成を呼びかけたのである。こうして県下各地域に続々と子ども会が芽生えることになった。「すべて国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ、且つ育成されるよう努めなければならない」「すべて児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護されなければならない」とかかげ、すべての国民が、児童福祉の理念を理解し、正しい愛情と知識と技術をもって、子どもを育成し、それを日常生活の中で実行することも目標にしている。昭和22年に制定された「児童福祉法」の施行においても、子ども達の健全育成を呼びかけたのである。

 本県における子ども会発展史の中で、群馬県社会福祉協議会の果たした役割は大きく、県単位子ども会育成運動は、常に県社協を中心に進められてきたといっても過言ではない。
教育、福祉の行政を調整し、効果的な行政指導が行われるよう取りはからい、また一方では、民間有志指導者を発掘し活動させるよう配慮し、県子ども会組織の結成と促進に、大きな手助け、指針を示したものである。昭和33年に県社協の肝入りで、子ども会育成連絡会議が発足し、郡市子ども会育成協議会が開催された。昭和35年子ども会指導者研修会が開催され、その会において「子ども会指導者の全県的連絡組織の結成を促進されたい」との要望があり、行政当局においても「助成策を考えるべきである」との方針が打ち出された。そこで、昭和36年県婦人児童課、県社会教育課、県社協、民間子ども会指導者9名により、県組織の進め方等について話し合いがもたれたのである。その後、同年8月23日「子ども会指導者結成のための準備会」及び、第1回準備常任委員会、同年10月6日第2回準備委員会総会が開催され、県組織の子ども会育成団体の実現に向けて、大きく踏み出すべく話し合いが続けられた。昭和36年10月23日に、群馬県労使会館において、県下各地の子ども会関係者の参集を求めて、群馬県子ども会育成団体連絡協議会の結成大会が開催され、ここに県組織をもつ、「群馬県子ども会育成団体連絡協議会」が創立されたのである。

社団法人へ改組移行

 我が国は、高度経済成長により、都市化、核家族化、少子化、更に高学歴化等々急激な社会変化に伴い子どもの成長、発達に種々影響を与えている。

 群馬県においても例外ではなく特に地域の連帯感もなくなり、更には価値観の多様化や伝統文化の伝承も失われてきた。

 遊び場の減少、異年齢集団の遊ぶ姿も減少、自然の中での遊び、活動機会も減少している。こうした社会状況の変化の中、学校週5日制が実施されようとしている今日、本会では単位子ども会の自主的活動の推進、育成者の養成事業の推進、運営組織強化と財源の確立等が急務であろうと、本会では、組織の強化充実のため昭和62年4月から社団法人へ改組すべく準備にかかった。同年10月、書類申請をし、昭和62年11月17日付けで、群馬県教育委員会により認可、公益法人としての本会が発足した。

 役員については、旧役員がそのまま法人としての県子育連役員が就任、財産等についても一切旧子育連を継承した。

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